
「出家してみたい。
でも、もう若くないし、今さら無理かもしれない」。
そんなふうに、あこがれと迷いのあいだで足が止まってしまうこと、ありますよね。
仏教的な静かな生き方に心が動いているのに、「この年齢から修行なんてできるの?」「お金は?家族は?」と考えはじめると、結局なにも始められない。
気持ちだけが置いてけぼりになって、なんだか落ち着かない感じが続いてしまう。
先に、いちばんお伝えしたいことを書きますね。
出家に年齢の上限はありません。
そして、中高年やシニアになってから仏門に入った人は、実際にたくさんいます。
さらに言えば、「今の暮らしを全部捨てて寺に入る」だけが道ではありません。
生活を続けながら正式な仏教徒になる道もあれば、働きながら少しずつ学ぶ道、まずは坐禅会にふらっと参加してみる道もあります。
だから、年齢という一点だけを理由にあきらめてしまうのは、ちょっともったいないんです。
焦らなくて大丈夫。
むしろ、人生をひと通り歩いてきた今だからこそ、ひらけてくる道があります(私もこの事実を知ったとき、肩の力がふっと抜けました)。
この記事を読み終えるころには、「自分の場合はどう考えればいいか」が、きっと少し見えてくるはずです。
この記事でわかること
- 出家に年齢制限があるのか、何歳からでも始められるのか
- 中高年やシニアから実際に仏門に入った人の歩み
- 出家と得度と在家得度の違い、現代の出家のリアルな姿
- いきなり出家しなくても今日からできる仏教との関わり方
出家に年齢の上限はなく中高年からでも始められる
まず、あなたを一番悩ませている「年齢」の話から、はっきりさせておきましょう。
ここがクリアになるだけで、気持ちはずいぶん軽くなります。
結論から自然に言えば、年齢はあなたが思っているほど大きな壁ではありません。
むしろ、壁だと感じていたものの正体が「思い込み」だった、と気づく人も多いんです。
仏教の出家にはもともと年齢制限がない
そもそも仏教の出家には、「何歳まで」という上限の決まりがありません。
仏教のはじまりであるお釈迦さまの時代をたどると、出家するときに年齢や資質は問われませんでした。
若い人もいれば、人生の後半に差しかかった人もいて、いろいろな動機の人が仏門に入っていったとされています。
年齢で人を選り分ける、という発想そのものが、もともとなかったわけですね。
もちろん、現代の日本のお寺には、それぞれの宗派ごとのルールや手順があります。
たとえば浄土宗では、僧侶になるための得度は6歳以上から受けられ、お寺の住職になる資格は20歳以上、といった区切りはあります。
けれども、これは「下限」や「資格の条件」の話であって、「○歳を過ぎたら出家できません」という上限の線引きではありません。
「年齢制限があるかも」という不安の正体は、たいてい思い込みのほうなんですよね。
学校の入試や会社の定年のように、世の中には年齢で区切られる場面が多いから、つい仏門も同じだと思ってしまう。
でも、出家の世界は少し違います。
事実として、上限はない。
まずはここを、しっかり受け取ってあげてください。
もうひとつ覚えておきたいのは、「年齢が高いこと」を理由に門前払いされるわけではない、ということです。
受け入れる側のお寺や宗派が見ているのは、年齢の数字よりも、その人がどれだけ真剣に仏の道を願っているか、というところ。
だからこそ、まずは「自分はもう遅い」という思い込みを、いったん横に置いてみてほしいんです。
スタートラインは、あなたが思っているよりずっと手前にあります。
実際、「何歳まで」と気にしている人ほど、心の中ではもう仏の道に強く惹かれていることが多いものです。
その気持ちこそが、いちばん大切な資格なのだと思います。
定年後やリタイア後に出家する人が増えている
さらに心強いのが、実際に中高年やシニアになってから出家する人が、近年ふえているということです。
会社を定年まで勤め上げて、第二の人生として仏門に入る。
そんな選択をする人が、決して珍しくなくなってきました。
たとえば、臨済宗妙心寺派には「第二の人生プロジェクト」という取り組みがあります。
これは、リタイア世代に広く門戸をひらいて出家を支援する仕組みで、立ち上げからの5年間で、実際に得度(僧侶になる儀式)をした人が67人も出たと伝えられています。
そのほとんどが、もともとは普通の会社員だった人たちです。
そのうち22人はすでに僧籍を得てお寺に入り、6人は住職に就いたといいます。
数字で見ると、ぐっと現実味が出てきませんか。
「自分だけが無謀なことを考えているのかも」と思っていた人にとって、これはかなり安心できる事実だと思います(先を歩いている先輩が、こんなにいたんだ、と)。
ちなみに、こうした支援の仕組みがわざわざ立ち上がるということ自体が、「人生の後半から仏門に入りたい人」が一定数いて、求められている、という何よりの証でもあります。
人生経験を重ねた今だからこそ歩める道がある
おもしろいのは、「人生をひと通り経験してきたこと」が、出家においてむしろ強みになる、という見方があることです。
ある仏教にくわしい大学の教授は、こんな趣旨のことを語っています。
社会人として定年まで働き切ると、地位や収入をある程度は手に入れた状態になる。
だから、その後の人生で「もっと欲しい」と我欲を追いかける必要が薄くなる。
しかも日本の会社員は年金などの社会保障があるので、生活の土台を保ちながら仏門に入ることもできる。
そういう意味で、人生の後半から出家するのは、実はとても理にかなっている、というのです。
若い頃には、まだ手放せないものがたくさんあります。
出世も、お金も、人からどう見られるかも。
けれど人生を重ねた今なら、自然に手放せるものも増えている。
これまで積み重ねてきた仕事の経験や、人の悩みに寄り添ってきた時間は、僧侶として人と向き合うときにも、きっと生きてきます。
年齢を重ねたことは、出家においてはマイナスばかりではなく、むしろ追い風にもなり得るのです。
先日、近所のお寺の坐禅会に参加してみたんですが、参加者の半分以上が私と同じくらいの年代の方でした。
「定年してから通い始めたんですよ」と笑うおじさまの顔が、本当に穏やかで。
ああ、ここに来てよかったなと思いました。
中高年から仏門に入った人たちの歩み
「年齢制限がないのはわかった。でも、実際にやり遂げた人はどんな感じなんだろう」。
そう思いますよね。
ここでは、人生の後半から仏門に入った人たちの歩みを、いくつか具体的に見ていきましょう。
リアルな例ほど、勇気をくれるものはありません。
65歳で会社役員から禅僧になった人の例
ある男性は、大手の電機メーカーで技術畑を歩み、海外法人の社長まで務めた、いわば企業人としての成功者でした。
その人が出家したのは、会社の役員を退いたあとの65歳のとき。
若い頃から坐禅会に通うなどして、仏教に強く惹かれていたそうです。
出家後は、滋賀県のお寺で1年3か月のあいだ、雲水(修行僧)として修行に励み、正式に禅僧になりました。
もともとお寺の家の出身ではなかったため、入るべきお寺がない。
そこで宗門の紹介を受けて、縁もゆかりもない地方のお寺の住職として入りました。
そのお寺は、当時ほとんど荒れた状態で、檀家はわずか1軒だけだったといいます。
彼は退職金などを元手に建物を直し、坐禅堂を整え、企業研修の場としてお寺をひらいていきました。
会社員時代に培った発想力や行動力が、第二の人生でもしっかり生きたわけですね。
しかもこの方、80代になってから、奥さまと一緒に大学の仏教学科に入学までしているんです。
「人生の最晩年に学ぶのは理想的だ」と、孫ほど年の離れた学生にまじって学んでいる。
その姿は、年齢を言い訳にしない生き方そのものですよね(80代で新入生って、もう、かっこよすぎます)。
会社員としての経験を生かしてお寺を立て直し、さらに学びまで深めていく。
一度きりの人生を、最後まで前を向いて使い切ろうとする姿には、年齢に迷うすべての人の背中を押してくれるものがあります。
50代で早期退職して僧侶を目指した人の例
もう少し若い世代の例もあります。
ある人は、56歳で新聞社を早期退職したあと、得度式を受けて正式に仏門に入り、仏教系の大学に入学して、修行の道へと進んでいきました。
長く一般の会社で働いてきた人が、人生の節目で仏教を本格的に学び直す、という道を選んだわけです。
また、48歳でシングルマザーから尼僧を志した女性もいます。
臨済宗の尼僧になるために、朝3時半からの読経をはじめとする厳しい修行を積みました。
家庭や仕事を背負ってきた人が、人生の途中から覚悟を決めて仏門に入る。
その歩みは、決して平坦ではないけれど、確かに「できること」だと教えてくれます。
こうして並べてみると、出家した年齢も、それまでの仕事も、性別も、本当にさまざまです。
50代、60代はもちろん、もっと上の世代から踏み出した人もいる。
共通しているのは、年齢ではなく「仏の道を歩みたい」という気持ちのほうなんですよね。
収入目当ての出家でつまずく落とし穴
ここで、大事な注意点もお伝えしておきます。
良い話ばかりだとフェアじゃないですからね。
それは、「出家すれば食べていける」「僧侶になれば収入や住職の地位が手に入る」と考えて飛び込むと、たいてい思惑が外れるということです。
現実には、僧侶になったからといって一定の収入が約束されるわけではありませんし、お寺の住職になれることもめったにありません。
ある超宗派の仏教を学ぶ場でも、「老後の収入のため、あるいは転職のためにお坊さんにでもなろうか、といった安易な考えはまったく通用しない」と、はっきり伝えています。
出家はあくまで、仏教の真理にそった生き方を身につけるための道。
お金や肩書きを目的にすると、修行の厳しさだけが残ってしまい、途中でつらくなりやすいのです。
やってはいけないのは、生活設計をあいまいにしたまま、勢いだけで全部を手放してしまうこと。
動機が「逃げ」や「損得」になっていないか、いちど立ち止まって確かめる。
これは、後悔しないためにとても大切なポイントです(勢いだけで決めると、あとで冷静になったとき足元がぐらつきますからね)。
出家と得度と在家得度の違いを知ると迷いが軽くなる
じつは、「出家=今の生活を全部捨てて山にこもること」というイメージが、迷いを必要以上に大きくしている場合がよくあります。
ここで言葉の意味を少し見ていくと、選択肢がぐっと広がって、気持ちが軽くなりますよ。
「全部を捨てるか、あきらめるか」の二択だと思っていたものが、実はもっと幅のあるグラデーションだった、と気づけるはずです。
出家と得度はどう違うのか
まず「出家」と「得度」。
似ているようで、指しているものが少し違います。
- 出家:
世俗の暮らしを離れ、仏の道に入ること。広い意味で「仏門に入る」という生き方そのものを指す言葉 - 得度:
僧侶になるための儀式のこと。髪をそり、戒(仏教徒としての約束ごと)を受け、僧名を授かって、僧侶の仲間入りをする節目
たとえば臨済宗では、得度のあとに専門の道場へ入り、雲水として早朝の坐禅などの修行に取り組みます。
道場に入ることを掛搭(かとう)と呼び、その前に数か月の準備期間を置くこともあります。
宗派によって流れは違いますが、「師につき、儀式を受け、修行する」という大きな筋道は共通しています。
得度のときに授かる僧名(戒名)は、いわば仏の弟子としての新しい名前です。
これまでの人生を否定するものではなく、新たな一歩を踏み出すための区切り、と考えるとわかりやすいかもしれません。
儀式と聞くと身構えてしまいますが、その一つひとつに「ここから仏の道を歩みます」という意味が込められている、と思うと、少し気持ちがあたたかくなりますよね。
生活を続けながら学ぶ在家得度という道
そしてここが、迷っている人にぜひ知ってほしいところ。
得度には、大きく分けて二つの種類があります。
ひとつは出家得度。
これは、僧侶としての道に入るものです。
もうひとつが在家得度。
こちらは、今までと同じように一般の社会人として暮らしながら、正式に仏の弟子となり、仏教徒として生きていく、という道です。
つまり、「仕事も家庭もそのままに、けれど正式に仏教の道を歩む」という選び方が、ちゃんと用意されているんです。
いきなり全部を捨てる必要はない。
まずは在家得度から始めて、学びを深めながら、いずれ本格的な道へ進むかどうかを考える、という順番でもいいわけです。
これを知っているかどうかで、心の負担はずいぶん変わってきますよね(「ゼロか百か」じゃなくていいんだ、と)。
在家得度を選んだ人のなかには、得度をきっかけに毎日の暮らしの中でお経をあげたり、坐禅を続けたりしながら、静かに仏教を実践している人がたくさんいます。
仕事や家庭という今の役割を大切にしながら、心の軸として仏の教えを置いておく。
そんな生き方も、立派に「仏の道を歩む」ことなんです。
出家か、今のままか、ではなく、その中間にも豊かな道が広がっている、と知っておいてください。
現代の出家は家を捨てることとは限らない
もうひとつ、誤解をほどいておきましょう。
「出家」という言葉は、昔のお坊さんの理想の姿をそのまま使っているだけで、現代の日本では、文字どおり家を捨てて姿を消す、というケースはほとんどありません。
実際、出家得度をした人の暮らし方はさまざまです。
専門の道場に入ってがっつり修行する人もいれば、当面は今までの生活を維持しながら、将来的に本格的な修行へ進む人もいます。
自分で仏教を学ぶ場をひらく人、講演や執筆を通して仏教を伝える人など、形はいろいろ。
「出家したら家族とも会えなくなる」という心配は、今の時代には当てはまらないことが多いのです。
下の表に、ざっくりした違いをまとめておきますね。
自分はどのあたりから始めたいかな、と眺めてみてください。
| 道のタイプ | 暮らし方 | こんな人に |
| 在家得度 | 今の生活を続けながら正式な仏教徒になる | 仕事や家庭を手放さず仏道を歩みたい人 |
| 出家得度(生活維持型) | 当面は暮らしを保ちつつ将来の修行を見据える | 段階的に仏門へ進みたい人 |
| 出家得度(道場修行型) | 専門の道場に入って本格的に修行する | 腰を据えて仏道に専念したい人 |
中高年の出家で気になるお金と体力と家族
ここまで読んで、「年齢は壁じゃない」「道はいろいろある」と感じてもらえたら嬉しいです。
とはいえ、現実的に気になることもありますよね。
お金、体力、家族。
ここは正直にお話しします。
きれいごとだけでは、本当の判断材料にはなりませんから。
修行の厳しさと体力との向き合い方
出家、とくに道場での修行は、想像以上に厳しいものです。
早朝からの読経、長い時間の坐禅や正座、こまかな規律。
日本の修行は、基本的に老若男女みんな同じ内容で行うのが通例で、「高齢で膝が悪いから坐禅の時間を短く」といった配慮は、ないことが多いのが実情です。
精神的に参ってしまって、途中で断念する修行僧も少なくない、と言われています。
ここは、あらかじめ知っておいたほうがいい現実です。
とはいえ、過度に怖がる必要もありません。
厳しさの中身を知っておけば、自分の体力や生活に合った受け入れ先を選ぶ、という前向きな準備につなげられます。
ただ、ここでも光はあります。
先ほどの「第二の人生プロジェクト」では、60歳以上のリタイア世代を想定して、ハードルを下げた修行メニューを用意しています。
体調をくずさないよう休憩を多めにとり、家族との面会もでき、部屋にいるときは携帯電話やパソコンも使える、といった配慮があるそうです。
年齢に合わせた受け入れ先を選べば、体力の不安はかなりやわらげられます。
大事なのは、「自分の体と相談しながら進める道を選ぶ」ことなんですね(無理して若い人と同じペースで頑張る必要は、ないんです)。
お金と生活設計をどう考えるか
お金の話も、避けては通れません。
先にも触れたとおり、出家しても収入が保証されるわけではないので、生活の土台はあらかじめ考えておく必要があります。
家のローンや家族の生活費など、現実の数字は、目をそらさずに整理しておきましょう。
逆に言えば、年金や貯えなど、生活を支えるものがある人ほど、仏門での暮らしを落ち着いて続けやすい、という面があります。
実際、専門家も「定年まで勤め上げ、社会保障もある人にとって、老後の出家は十分に可能だ」と述べています。
ぜいたくをしなければ、お寺という恵まれた環境のなかで人生を再設計できる、という声もあります。
ポイントは、「出家でお金を得よう」ではなく「お金の心配を整えてから出家する」という順番で考えること。
ここを取り違えなければ、お金の不安は、ちゃんと準備でやわらげられます。
逆に、ここをあいまいにしたまま進むと、せっかくの修行にも気持ちが集中できなくなってしまいます。
具体的には、毎月どのくらいのお金があれば暮らしていけるのか、年金や貯えで何年くらい支えられるのか、家族に負担をかけずに済むのか。
このあたりを紙に書き出してみるだけでも、不安の正体がはっきりして、気持ちが落ち着いてきます。
お金は、向き合うほど怖くなくなるものです。
「見ないようにする」のが、いちばん不安を大きくしてしまうんですよね(家計簿、見たくない日もありますけどね)。
家族の理解と師僧との出会い
そして、忘れてはいけないのが家族のことです。
出家は、自分ひとりの問題のようでいて、家族の暮らしや気持ちにも関わってきます。
だからこそ、独断で突き進むのではなく、なぜ仏の道を歩みたいのか、生活はどうするのか、を落ち着いて話し合うことが大切です。
理解してもらえると、その後の道のりがぐっと歩きやすくなります。
最初は驚かれても、あなたの本気の気持ちは、時間をかければ少しずつ伝わっていくものです。
もうひとつ現実的な関門が、師僧(師匠となるお坊さん)との出会いです。
多くの宗派では、僧侶になるには師僧のもとで学ぶことが前提になります。
とくに在家出身の場合、受け入れてくれる師僧やお寺と縁がつながるかどうかが、最初の一歩を左右します。
だからこそ、坐禅会や寺の行事に通って、ご縁を少しずつ育てていくことが、遠回りのようで近道になるのです。
気の合うお寺やお坊さんに出会えるかどうかは、その後の歩みやすさを大きく左右します。
焦って「どこでもいいから受け入れてくれるところを」と決めてしまうより、いくつかのお寺の坐禅会や法話に足を運んで、雰囲気やお坊さんの人柄を感じてみる。
そのうえで「この人のもとで学びたい」と思える出会いを待つほうが、結果的に長く続けられます。
ご縁というのは、不思議と、動いている人のところにやってくるものなんですよね。
いきなり出家しなくても今日から仏教に近づける
「いろいろわかったけど、やっぱり出家は大きな決断。すぐには決められない」。
それで全然いいんです。
むしろ、いきなり山を登ろうとしなくていい。
今いる場所から、一歩ずつ近づいていく方法がちゃんとあります。
小さな一歩を重ねるうちに、自分の本当の気持ちも、だんだん見えてきます。
坐禅会や写経やお遍路でふれてみる
仏教にふれる入り口は、思っているよりずっと身近にあります。
たとえば、お寺で開かれている坐禅会。
初心者向けに作法をていねいに教えてくれるところが多く、ふらっと参加してみるだけでも、心の静まる感覚を味わえます。
ほかにも、お経を一文字ずつ書き写す写経や、札所をめぐるお遍路など、在家のまま体験できる仏教の実践はいろいろあります。
- 坐禅会:
姿勢を整えて静かに座る。多くのお寺で開催、初心者歓迎のところも多い - 写経:
お経を書き写しながら心を整える。自宅でも始められる - お遍路:
札所をめぐり読経や納経をする。少しずつ区切って歩く人も多い - 寺の修行体験:
短期間の宿泊で、修行の雰囲気を味わえるプログラムもある
何度か通ううちに、お寺の方やほかの参加者と顔なじみになって、そこから自然に相談できる相手が見つかることも少なくありません。
坐禅会や写経の会は、お寺の掲示板やホームページ、地域のお知らせなどで見つけられます。
最初は「いきなり出家したいなんて言ったら変に思われないかな」と緊張するかもしれませんが、大丈夫。
多くのお寺は、仏教にふれてみたいという気持ちを、あたたかく迎えてくれます。
まずは一度、見学のつもりで足を運んでみる。
それだけでも、頭の中だけで悩んでいたときとは、景色がまるで変わって見えるはずです。
仏教を学べる塾や講座という入り口
もう少し本格的に学んでみたい、という人には、仏教を体系的に学べる場もあります。
たとえば、特定の宗派にしばられず仏教を学べる「超宗派」の学びの場があり、年齢制限はなく、20代から70代まで幅広い世代が学んでいます。
スクーリングや修行は原則として土日に行われるので、仕事を続けながら通うこともできます。
入門の課程であれば、費用はおよそ12万円台から、というところもあります。
こうした場では、基礎から読経や作法まで学べて、卒業後に在家得度や出家得度へ進む道もひらかれています。
また、大学のなかには、50歳を超えた入学者に年代に応じた学費の割引を用意しているところもあります。
「学び直し」として仏教にふれる選択肢も、今はずいぶん広がっているんですね。
いきなり寺に入るのはハードルが高くても、「まず学ぶ」ところからなら、ぐっと始めやすいはずです。
自分に向いているかを確かめる問いかけ
最後に、年齢ではなく「自分の心」に目を向ける問いかけを、いくつか置いておきます。
出家に向いているかどうかは、年齢で決まるものではなく、こういうところで見えてくるからです。
- なぜ仏の道を歩みたいのか、その理由を自分の言葉で語れるか
- それは「逃げ」や「損得」ではなく、前向きな願いから来ているか
- 厳しい修行や規律にも、学びとして向き合えそうか
- 家族と落ち着いて話し合えているか、理解を得られそうか
- 生活の土台(お金や健康)について、現実的に考えられているか
むしろ、この問いをゆっくり考えていく時間そのものが、もう仏の道の入り口に立っているということなのかもしれません。
答えは、急いで出さなくていいんです。
むしろ、何年かかけてゆっくり考え続けてもいい。
考えている時間も、立派にあなたの仏道の一部です。
迷いながら問い続けるその姿勢こそが、仏教がいちばん大切にしているものなのかもしれません。
まとめ
この記事のポイントをまとめます。
- 出家に年齢の上限はなく、何歳からでも始められる
- 中高年やシニアから仏門に入る人は実際にふえている
- 5年間で67人が得度した支援の取り組みもあるなど、実例は豊富にある
- 人生経験を重ねた今だからこそ歩める道がある
- 65歳で禅僧になった人や50代で得度した人など、歩みは人それぞれ
- 収入や肩書き目当ての出家はつまずきやすいので動機を確かめる
- 出家と得度は別もので、生活を続けながらの在家得度という道もある
- 現代の出家は、家族と縁を切って姿を消すこととは限らない
- 修行の厳しさやお金や家族は、受け入れ先選びと準備でやわらげられる
- 坐禅会や写経、仏教を学ぶ講座など、今日からできる一歩がある
その気持ちは、とても自然なものです。
でも、ここまで見てきたように、年齢はあなたが思うほど大きな壁ではありませんでした。
本当に大切なのは、何歳かということよりも、どんな気持ちで仏の道を見つめているか、なんですよね。
いきなり大きな決断をしなくても大丈夫。
まずは近くのお寺の坐禅会を調べてみるとか、仏教の講座の資料を取り寄せてみるとか、家族とお茶でも飲みながら気持ちを話してみるとか。
そんな小さな一歩からで、きっと十分です。
人生の後半に、心から歩みたいと思える道に出会えるって、それだけで幸せなことですよね。
あなたのその気持ちが、これからどんなふうに育っていくのか。
焦らず、あなたのペースで、そっと一歩を踏み出してみられたらいいですね。